紅花染め体験

当紅の館では時代と共に変わりゆく染物を昔のままに次の時代に伝えて行く努力をしています。

染める法方は冬の季節は寒いので室内は暖かく藍染は色んな染め具を使用して直接冷たい染液や水を手で触ることなく染められます。紅花は36度から38度のぬるま湯を使用します。

心地よい手触りと染め上がりの素晴らしい由布友禅は布に型紙で染液を叩きつけるようにして染液を奥へ押し込みます。そうして色んな花柄の模様が出来上がります。

メッセージなども思いのままに染められます。

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『紅花染め』というと艶やかな赤い色をイメージするかもしれません。

しかし、収穫時期の紅花畑は、あたり一面『黄色』で埋め尽くされているのです。

紅花からは『黄色』と『紅色』の二色を抽出することができるのですが、そのなかの99%以上が『黄色』、残り1%未満が『紅色』なのです。
その赤い色を抽出するにはとても手間がかかり、きれいな紅色を出すのが難しく、そのため原料として紅花は貴重で高価な物と扱われてきました。

日本人を彩る「赤」

日本では古来より『太陽』『火』『血液』などを連想させる『赤』に特別な意味を感じ、大変尊んできました。 『太陽は赤』と思う国は世界でも希少で、日本人には特別な色となっています。神聖な色として『神を宿す』という目的使われ、健前の時には柱につけたり、神事の時には化粧として使い舞を舞ったり、神の言葉を告げたりしました。

『赤』に願いを込め、色々な場面で着物や化粧などに使われるようになりました。 赤ちゃんが無事に生まれた事に感謝する『初宮参り』、健やかな成長を願う『七五三』、人生晴れ舞台である『婚礼』、生まれた年の干支に還ることでおめでたいとされる『還暦』など、普段何気なく行っている儀礼にも『赤』は用いられていますが、これらを行う時に使用する化粧の紅や紅染めの着物は、赤い色が持つパワーで、悪い物を寄せ付けないようにと魔除けの意味を持っています。

さらに、昔からおめでたい色として、赤飯や紅白の水引、達磨などの縁起物に使われ『赤』の語源でもある『明』の、晴れやかな明るいイメージにつながったとされています。

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阿波藍の起源

日本では藍の起源は諸説あり、一定しておりません。 飲明天皇の時代に遣唐使がインド産の藍を持ち帰って藩集に植えた事が始まりと言われておりますが、インド産の藍はマメ科の植物ということで、日本のタデ藍とは異なります。 そのようなことから、インド輸入説に異論を持つ人が多く、むしろ中国輸入説が多く占めております。 一説によりますと、僧塁微の渡来前、すでに藍が用いられていたともいわれているのです。 藍を使用して衣服の色を染めたのは、714年(元明帝輪銅7年)が始めで、染殿を造り縹色染めて、一時禁色の如く尊んだとも伝えられております。

一方、阿波における藍の起源は、蜂須賀家政公が阿波藩主に封じられてから30年後の1615年(元和元年)に藩磨から移入されたのが始めであると多くの郷土史には記されております。 ですが、それ以前から、阿波の藍は存在していたようで、天保8年の「阿州藍草頁之記」によりますと、今から約1000年前、村上天皇時に「諸国の藍の中で阿波から奉った藍が最もよい」と書かれていることから、すでに藍の産地であったようにも思われます。 また、西野嘉右衛門氏も「阿波藍沿革史」のなかで、「蜂須賀入国の翌、1586年(天正14年)に「紺屋師」を設け、さらにその翌年に紺屋役銭の上納を命じた・・・」などの記録から推察し、蜂須賀公のよる移入説を否定しております。 これらのことから藩政以前にかなりの藍作が行われていたものと考えられておりますが、これが大量に商品化され藍を阿波の代名詞にまで特産化したのは、蜂須賀公が入国して以来のことになるのです。

藍が、阿波の特産物として質量ともに全国を制覇するに至った理由を要約すれば、「気候風土が藍の栽培に適していた」「吉野川平野の治水の不備などにより、稲作ができなかった」「歴代藩主の周到な保護政策による」と考えられております。 当時の施策について吉川祐輝は「阿波国藍作法」を次のように述べております。 1766年(明治3年)に藍大官所を設け、その栽培を鼓舞する一方、集荷、販売には度重なる厳重な取り締まりを行い、阿波藩の大きな財源を得る道を開いた。

ことに葉藍の売買は自由を許さず庄屋を通じて代官所に報告を義務付け、これを犯したものは入牢せしめるなどの刑を設け、すくもおよび藍玉製造は許可制とし、製品は藍方役所に納付させ、他国への販売は藩がこれを指定して、要所問屋を設け、各問屋ごとに販売地域を限定して競売を避けるなど周到緻密な制度が敷かれた。

また、藩主江戸参勤の際、諸大名より藍種子の譲渡を受ければ礼儀上種子は送るが、これをいぶして、芽が出ないようにしたと伝えられ、種子の他国移出を厳重に禁じた。

一方、藍の栽培法及び藍玉の製造法についても一切の記載を許さず、藍師の出国を禁じ、万一他国へ逃げればこれを追って殺すなど、阿波藍にまつわる悲話も少ない。いずれにせよ、藩の独裁的な施政によって、特産化されたのが阿波藍である。

藍の薬効
  1. 青藍を粉末にして、水に多量に服用すると食道癌や胃癌による頑固な嘔吐に効果があるといわれており、青藍のかわりに葉藍や藍実あるいは生葉汁を服用してもよいです。
  2. 生葉汁を塗布すると火傷、口内炎、唇のあれ、腫物、魚の目、ハチ、その他虫による刺傷などにも効くといわれています。
  3. 葉藍または藍の実を1日5回ないし10g煎じて服用すれば、消毒、解熱剤となるといわれており、魚やキノコの中毒、腫物、小児の諸毒にも効果があると言われています。
  4. 葉藍を煎じて服用すれば助膜炎、便秘、月経不順などに効果があると言われています。
  5. 藍実をそのままあるいは煎じて服用すれば、精力減退、腹痛等に効果があると言われています。
  6. 花や葉を陰干しにして煎じた液で洗うと痔疾治療に効くといわれています。
  7. 青藍をそのままあるいは煎じて服用すれば、止血、消膿の作用があると言われ、魚の毒にもあたったのを解毒すると言われています。
  8. 葉の黒焼末を服用すれば嘔吐止め等に効果があるといわれています。
  9. ホウセンカの種子を炒って粉末とし、青藍末と同量を混ぜて用いると、嘔吐、食欲不振等に効果があると言われています。
  10. 大小便が通じないときに、桃の葉をふたつかみ煎じて服用あるいは生葉汁を飲むとよいと言われています。

藍の薬効

藍爬、学名をPolygonum tinctorium Lourと言い、タデ科に属しタデ藍とも呼ばれます。 日本での藍(タデ藍)の他、Indigotin(青藍)を有する染料植物としては、山藍(Mercurialis leiocarpa S.etZ.)、琉球藍(Strobilanthesflaccidifolius Nees.)、欧州を原産地とするアブラナ科の大青(Isatistinctoria L.)およびインドに産するマメ科の木藍などがあります。 日本において栽培されている藍は、タデ科で比較的品種も多いのですが、その形状や性質はほぼ類似しています。 徳島県で古くからは、小千本系統が栽培されていたのですが、現在一般で栽培されているのは、小上粉系統なのです。

すくもと藍玉

染料としては通常「すくも」または「藍玉」を用します。 収穫した葉を乾燥し(この状態を葉藍)、葉藍を堆積して発行腐熱させたものが「すくも」です。 すくもを練り固め、運搬や保存をしやすくしたものが「藍玉」となります。 「すくも」の製造過程では、葉藍は色素以外の有機分解され、同時に染料成分(indigotin)の浸出が容易になります。 日本のタデ藍にのみみられる製法でもあります。

阿波藍の歴史と概要

徳島の歴史を語るとき、『藍』無しでは語れません。 藍はタデ科に属する一年生草本で、藍に青藍(indigotin)を含身、古い時代から藍染料を得る目的で栽培されてきました。 我が国における藍の栽培についての起源はいくつか存在するのですが、1585年(天正13年)蜂須賀家政公が播州から国主として阿波へ入国の際に伝えられたという説や、室町時代にはすでに阿波国の重要な財源の一つであったという説もあるようです。 阿波藍の生産は、江戸時代には藩の保護や奨励策のもとに隆盛を極めたらしく、明治以降にも藍作は盛んに行われてきました。全国的には1903年(明治36年)に最高の生産規模になり、北海道から九州に至るまで日本各地で栽培されていました。特に徳島県は作付面積と生産量の過半数を占め「阿波藍」として染料界を風雅していきました。 国内だけでなくインドより良質で安価なindigofera属の(インド藍)の輸入もされ始め、さらに明治以降からは化学合成された人造藍(indigopure)の輸入が急速に増大したため、国内産の天然藍は年を追って減退の一途をたどり、徳島でも昭和41年にはわずか4ヘクタールにまで栽培が減少してしまいました。 しかし、藍に魅せられ、藍を愛する人々の情熱により生産量も少しずつ増加し、最近では天然藍の持つ美しさや風合いが改め見直されはじめ、全国的に静かなブーム巻き起こしてています。 現在、全国で使われる「すくも」のほとんどは徳島で作られており、徳島は「藍のふるさと」と言えます。

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友禅染の技法(糊糸目とゴム糸目以外)

①堰出友禅
糸目友禅では地の部分と柄の部分を糸目によって区分しますす。堰出し友禅では、地の広い部分を糊で覆って防染します。正確に輪郭を取るので、堰出しの前に糸目糊置きをしておく場合もありますが、完成品には糸目はあらわれません。

②無線友禅(濡れ描き友禅、豆描友禅)
生地に直接、筆や刷毛で絵を描くように染める方法です。そのまま描くと滲んできれいな絵にならないので、生地に豆汁を使って地入れをします。 粘度を変えることで、濡れ描き友禅にも、豆描友禅にもなります。

③縁蓋
きりっとした線を表現したいときに、ブラスティックのシートを生地にあて、防染したい部分の形にカッターで切り防染するものです。あらゆる技法のうち、もっとも細密できりっとした線が得られます。

④色糊を使った糸目(カラー糸目)
明治時代に広瀬備治が多色の型友禅を制作するために発明した「色糊」の原理を糸目に応用したものです。色糊とは
、染料と糊を混ぜたものをヘラを使って生地に摺りこみ、蒸してから水洗すると、糊と余分な染料だけが流れて、生地がムラなく染められるというものです。江戸小紋はこれを応用したものですが、糸目にもこれを応用し、糸目の使うゴム糊に着色剤を入れると、ゴム糊を落とした後に糸目に色が残って「カラー糸目」になるという技法です。

⑤手差友禅(糸目型)
糸目のみに型紙を用い、柄部分の彩色は手で挿すという、手描と型染めの中間の技法です。
総柄の訪問着を複数枚つくるときなどに用いられます。

友禅染の糊

①糊糸目
糸目用のモチ糊の調合は新米、古米によっても異なるのでさまざまです。その日の気候なども考慮して配合すしますが、糯粉、糠、水、食塩で糊を作り、さらに防染剤として石灰を加え、また蘇芳の煎汁を加えて着色するので「赤糸目」とも呼ばれています。蘇芳は細い糸目を引くときに間違えないようにするための着色剤です。着色剤なのになぜ蘇芳かというと石灰とレーキを生じ生地を着色しないからなのです。

②ゴム糸目
ゴム糸目は、昭和2年ごろ発明されました。柔らかく、描きやすく細い糸目でも確実に防染でき、乾きも早いため作業の効率も上がるということで、伝統的に見て本物でないと感じてしまうこと以外は良いことばかりですが、それが現在主流になっている理由です。ゴムの配合は、生ゴム、酸化亜鉛、ダンマルゴムで揮発油に溶かします。酸化亜鉛は粘度を調節するものであり、ダンマルゴムは、生地への浸透力を増すとともに、染めた後に溶剤にさらに解けやすくするためのものなのです。細い糸目を引くときのための着色剤として群青を加えます。 レーキ化という方法は染料を他の粒子に吸着させて顔料に変えてしまうことです。
古代には西洋にも貝紫のような優れた染料が知られていました。油絵具は顔料を油に溶かしたものなので、古代から染料は使えないことになってしまいました。そこで、粒子の小さい染料を粒子の大きい顔料にするために、別の粒子に染料を吸着させるという方法が考えられたのです。それをレーキといいます。代表的なものはコチニールをレーキ化したクリムゾンレーキです。友禅の技法では、蘇芳を石灰に吸着させて、顔料化することで生地に染み込むのを防いでいます。

蝋染

(1)蝋の種類
①植物由来
木蝋・・・ハゼノキの実から取れる国産の代表的な「天然の蝋」。しかし化学構造では蝋ではなく植物性の油脂であります。やわらかいので亀裂はシャープになりません。 白蝋・・・木蝋を日光に晒して漂白したもので、木蝋より少し硬く、融点は少し高いです。 カルナバ蝋・・・ブラジル産のカラナウバヤシの葉の裏面に分泌する蝋を集めて固めたものです。防染力に優れていますが、固まりやすく使いこなすのは難しいため、他の蝋と混ぜて使うことが多いです。シャープな亀裂が出来ます。

②動物由来
イボタ蝋・・・イボタカイガラムシの分泌物からとれる動物性の蝋です。すぐ固まって使い難いので、他の蝋と混ぜて使うことが多いです。石垣のような亀裂が得られます。 蜜蝋・・・蜂蜜からつくるもので、古代の遺品はこれです。

③石油由来
パラフィンワックス・・・19世紀始め頃に石油中にワックスが存在することが確認されましたが、それがこのパラフィンです。やがて量産技術が確立され、それ以後は現代まで、蝋といえば圧倒的にパラッフィンです。染色材料としては、段階的に融点の違うものが市販されていて、選択することが出来ます。 マイクロワックス・・・亀裂が入らない柔軟性のある蝋です。主に、堰出しに用いたり、他の割れやすい蝋に混ぜて安定させるのに使います。

④合成
ステアリン酸・・・牛脂、大豆などを分解したり、水素を添加したりしてつくるものです。化学構造上は脂肪酸で、防染力は弱です。

一般的な傾向は、融点の高いものは、高温で作業しなければならないため使いづらいですが、硬くて防染力は高いといえます。反対に、融点の低いものは、低温になっても液状なので作業しやすいですが、柔らかくて防染力は弱いということがいえます。さらに、硬いものは亀裂が入りやすく、それが蝋染ならではの特徴です。一方、柔らかいものは半透になりやすく、それもまた蝋染ならではの特徴になります。

(2)蝋染の技法
蝋染の技法といえば、染色の知識がある人なら、インドネシアのバティックのチャンティンを連想するのではないでしょうか。日本でもチャンティンを使って手描き更紗をつくる作家がいます。またチャンチンは熱帯のインドネシアにふさわしい技法であり、四つの季節がある日本では気温の低い冬になると、熱して液状にしてもすぐ冷えて固まってしまい、作業の効率が悪いようです。 半透性と亀裂以外の特殊なものとしては以下の通りです。

①チャンティン
インドネシアのバティックに使われる技法です。細い管が付いた銅製のポットを竹の先に付けた道具のことをチャンティンと言い、ポットに蝋を入れ、それを火にかけて溶かし、管から垂れてくる蝋で防染します。

②堰出し
模様の外周をマイクロワックスで埋めて、内部を自由に染液で描く方法です。

③まきろう
筆や刷毛につけた蝋を弾き飛ばして斑点状の模様をつくる方法です。均等に蝋を飛ばすために筆や刷毛以外の専用の器具を考案して使うこともあるようです。

④たたき
丸刷毛やへちま、たわしなどに蝋をつけて生地に押し付ける方法。まきろうとのちがいは、大小不均一な斑点をつくるのを目的として行うことです。

⑤点描
筆や刷毛の穂先のみに蝋をつけて、点描する方法です。

⑥うたし
筆の腹で、蝋を塗りこむように描き、半防染を表現する方法です。

⑦シケ引き
刷毛の先を櫛状に割ったもので蝋引きをして、縞を描く方法です。

⑧頭ずり
縮緬や地紋のある生地など凹凸のある生地の凸部のみに、硬い蝋で蝋をつける方法です。

⑨エッチング
鉄筆などで、人工的に亀裂をつくる方法です。

⑩ダンマル描き
ダンマルゴムを揮発油で溶かしたダンマル液で描く方法で、蝋ではないですが蝋染として解釈されます。本来の蝋よりも扱いやすいですが、「扱いやすい」ということは絵として描きやすいということなので、本来の蝋染よりも、純粋な芸術である絵画として評価されがちという点で厳しいものがあります。

⑪友禅の糸目や金くくりとの併用
蝋染の作品の中で、きりっとした線が欲しいときは、蝋染を友禅の糸目の線で囲んだり、金くくりをしたりします。

⑫蝋染の半防染と友禅との併用
具体的な併用の例として、友禅作品で遠近感を出したいときに、近景を友禅、遠景を蝋染で表現することがあります。また、個体を友禅、液体をダンマルの半防染で表現することもあります。半防染の中間色は、水の透明感の表現に向いています。

友禅染と蝋染のちがい

色を塗り重ね、模様にするのが絵画、防染により染める箇所と染めない箇所を作って模様にするのが染色です。つまり、絞りにしても型染にしても、無地以外の全ての染色技法は、染める技術ではなく、どれほど染めないかという技法です。そのなかで手描きが出来る防染技法の代表が、友禅染と蝋染ということなのです。

友禅染と蝋染は全く異なる歴史を進行しました。 蝋染は、染織史の最初に必ず登場する天平の三纈(さんけち)の一つである「臘纈(ろうけち)」です。
熱し融かした蝋を染めたくない部分に置き、それが冷え固まり防染効果を発揮してから染めて模様にするというものです。
現代の蝋染は日本古来の臘纈とは無関係で、インドネシアのバティックの系統です。 その後、蝋染は皆川月華により大成されました。創作的な表現には友禅よりも蝋染の方が適していると思われたため、帝展・日展の染色の主流になりました。

友禅染は、近世になって出現した日本独自の技法で、発明され現代まで染色技法の主役なのです。糊筒を使って米の糊で模様の輪郭を防染して模様を表現する技法には、絹布に描かれる繊細な友禅染の他に、木綿地に大雑把で庶民的な模様を描く筒描があります。

作家が友禅染でなく蝋染を選択する理由としては、必要とされる設備や専門技術を必要とする工程が友禅よりも少なく、個人作家が取り組みやすいということもありますが、表現手段として積極的な意義を求めるのであれば、それは、半防染と亀裂なのです。本来それらは、蝋という防染手段の欠点としてありましたが、近代の作家はそれに積極的な芸術性を見出し、意図的に使うようになりました。さらに伝統的な天然の蝋に加えて、石油由来の蝋や化学的に合成した油脂もつかえるようになると、コントロール性も高まり、表現の自由が増えてきました。

一方、作家が友禅染を選択する理由、すなわち友禅染の特長を際立たせるものは、糸目だではないでしょうか。糸目には、米の糊を使った近世以来のものと、昭和になって開発されたゴム糸目があります。

各産地における制作と特徴

京都
京友禅は刺繍や箔など、互いに関連しない複数の技術により構成されているので、分業するのが基本なのです。分業の責任者は京都では染匠と呼ばれます。自らは筆を持つことはありません。問屋の注文を受け、白生地を購入し、下絵、糊置き、彩色、地染め、刺繍、箔などの各工程ごとに職人を調整します。その間の資金負担をする資本家でもあります。

東京
東京友禅は、分業の責任者を模様師と呼びます。京都の染匠のように企画だけで生活できるほど、東京では着物が盛んな産業ではないので、友禅職人が分業の責任者を兼ねています。

金沢
作家制度が定着している加賀友禅は、意外なことに分業の責任者は作家ではなく地染職人なのです。本来、地染は作家に指示された色を染めるだけの脇役なので、責任者というのは意外です。反物は一気に染めなければムラになるので、地染職人には反物の長さである12m以上の長さのある作業場が必要なのです。そのため必ず一定の資産を持ち、資本家の役割を果たせるからではないでしょうか。

加賀友禅と京友禅の違い

一般的な着物の本に載っている両者の違いは次の3点です。

  1. 加賀友禅は金沢、京友禅は京都でつくられるという地域的な違い
  2. 加賀友禅は絵画的だが京友禅は図案的というデザインの違い
  3. 加賀友禅は友禅のみだが京友禅は刺繍や箔がつかわれているという加工の違い

加賀友禅と京友禅の違いを具体化した生き方をしたのが「加賀友禅と京友禅の特徴を融合させた」いう理由で、人間国宝の指定を受けた羽田登喜男ではないでしょうか。加賀友禅の作家として活動し、その後京都に工房を移し、京友禅作家として大成しました。加賀は元々保守的な風土であり、京都は新しい表現方法に挑戦する風土です。彼の作品の特徴は、加賀友禅的な写実をベースにしながら京友禅的な新しい表現方法をとりいれたものなのです。

染織と生活社の「染織と生活」の加賀友禅特集には加賀友禅作家に対するインタビュー記事があります。その中に、加賀友禅と京友禅の違いについての質問をしていますが、そのとき作家たちは、由水十久、毎田仁郎、成竹登茂男、羽田登喜男、矢田博、能川光陽、水野博という頂点の方々ばかりでしたが、考えた後皆さんが、ばらばらな答えをしました。 この「加賀友禅と京友禅の違い」という問題は作家自身が深く考えなくてはならないほど大きい問題なのではないのでしょうか。

三大友禅産地と名古屋友禅

現在では、「京都」「金沢」「東京」が三大友禅産地と言われています。ですが、細々ながら名古屋友禅というものもつくられています。

徳川吉宗の緊縮政策に反対した尾張宗春が産業振興のため、友禅師を名古屋に招いたということが始まりとされています。 現在では、作家が10名程と言われます。ですが、金沢の一大産業になっている加賀友禅とはどこで違ってしまったのでしょうか。江戸時代の加賀友禅は加賀染、加賀の御国染と呼ばれ、加賀で作られたと推定される作品が現在まで伝わっているのです。ですが明治以後においては京友禅より二流ものとされ、地元の人でも恵まれている人は京都から購入していたようです。そのような状況を克服して、今日の隆盛に至ったのは木村雨山という天才を輩出したからなのです。

昭和30年には人間国宝となり「加賀友禅」という言葉が急速に有名に知られて行きました。

近代の友禅染

明治時代、武家様式というものは無くなり、江戸後期の町人様式の、暗い地色に地味な友禅染をしたものが引き継がれてきました。地味な友禅の延長線上で、明治的な特徴としては「曙染」があります。曙染は、全体の地色は暗くて裾の方だけ明るい地色にぼかされており、そこに小付ながら友禅が施されるものです。
ですがやがて、新機軸が起こりました。

  • 無線友禅の発明により、より絵画的な表現が出来、
    それを生かした写生的な作品が生まれたということ。
  • 化学染料の普及により、より自由に色が使えるようになったということ。
  • 型友禅の発明により、友禅染が庶民に普及したということ。
  • 仕事の減った日本画家が、下絵師として着物制作に関わるようになったということ。

大正になり、着物も自由なものになりました。この時代は、百貨店が図案を懸賞として、一般公募し、それにより図案家の名前が世間に知られるようするなど、作家の誕生をきざしました。また百貨店は、都市の上級顧客の好みを反映する着物のデザインの研究もはじめました。これらのことから、東京の百貨店の活動は、戦後の友禅の歴史につながっているのだと言えます。

日展に初めて工芸部が出来たのは昭和2年。帝展系の作家グループは、商業的には順調に行かず、市田文治郎の支援を受けていました。彼らは戦後、日展で活躍したので、戦後の友禅の歴史につながっていると言えます。 同じく昭和2年、京都丸紅の「美展」が始まっていました。これらは呉服市場を意識した「芸術」で、京都丸紅が取引していた悉皆業者たちに「作家」という新しい概念を吹き込んだものです。美展は戦後も高級な友禅の発表の場として現在まで続き「友禅作家」という概念が次第に確立されていきました。

戦後昭和29年に重要無形文化財法が改正、翌年人間国宝の指定が開始しました。更に日本工芸会が結成され、伝統工芸展が開始し、友禅作家も参加しました。これにより、東京の百貨店が京都に挑戦した「懸賞様式」、純粋芸術の「日展様式」、京都の友禅界にあって芸術的であろうとした「美展様式」に加え、「伝統工芸展様式」ともいう新しい友禅のスタイルが開始しました。

友禅染は、時代により色々なバリエーションがあります。ですが、現代はそれらを簡単に知ることができるので、それぞれの方法を発展させていくことができるようになりました。

江戸時代の小袖と友禅染

優等な特長を持っている友禅染めは、現代の着物の加飾の主役でありますが、誕生後、比較的短い期間で技術的に頂点に達しました。 糊の調合法が進歩し、糸目で細密な表現ができるようになり、彩色の色数も増えていきました。ぼかし表現も一種の発明です。下絵師のレベルが上がり、芸術性も高まりました。それでも、全ての小袖に影響を与えたわけでありません。友禅染は、町人女性には流行した反面、武家の女性には受け入れられませんでした。武家はなんとこの後200年間、武士がなくなるまで友禅染を拒否し、寛文時代と同じ、主に刺繍と絞り疋田(型または絞り)で加飾する小袖を着続けていました。

なぜ、武家の女性が、友禅染を着なかったのでしょうか。 それは「先に流行に敏感な町人女性が友禅染に飛びついてしまっので、身分に基づくプライドの高い武家の女性は、後からそれについていくことを嫌った」ということが定説になっています。

加飾技法として、友禅染が縫箔(刺繍と箔)にまさるとも劣らず、これに勝るには、新しい図案が求められました。その理由は、友禅染の長所は絵画性が高いということから、それを生かすには刺繍では出来ない、友禅のみができるような新しい図案が課題だったからです。
友禅染の全盛期に作られ、現在は博物館に所持され、芸術的評価の高い友禅染の小袖は全て、奇想天外なものや写実的な風景を描いたものです。「奇想天外」と「写実」は対義語のようですが、衣服の意匠としては「写実」であること自体が「奇想」で、どちらも箔や刺繍や絞りでは表現しにくいものなのです。現代の着物でもありふれたものではありますが、着物に着物が描いてあるわけで、奇想天外の例ではないでしょうか。 友禅染のない外国では、刺繍はコストが問題になり、また版染や型染やロール捺染では模様を繰返さなければならないという制約のため、個人の衣服に説明過多の絵画を描くということはできないのです。それが、マリーアントワネットが「ヴェルサイユ宮殿全景」などというドレスを着ない理由なのです。

友禅染が流行り始めたのが1680年代で、その後、幕末まで200年近くあるわけですが、この200年間、友禅染の「いろんなものが描ける」という特長が、正常に進化し続けたらどうなるでしょうか。 現実に進んだ方向は反対なのでした。江戸後期から明治初期までの友禅染は、鼠や茶の地味な地色に、少ない色数や、時折糊置きしただけの白揚げで、シンプルな柄を描いただけというものが多いのです。さらに裾模様または褄模様といって、生地の限定された場所にだけ描いています。 
18世紀末から19世紀になって、ようやく武家の女性も部分的に友禅染を取り入れるようになりました。部分的というのは、2つの意味があります。 一つは、糊による防染で、白揚げの絵をつくり、そこに刺繍で色を入れるというものが流行ったため、友禅染の重要な特性である多色性やグラデーションによる「ぼかし」は拒否したということです。
もう一つは、 デザインが類型的で、友禅染の重要な特性である「絵画性の高さが制作者の創作性を促す」という可能性を封印したということです。

糊防染による白揚げ+部分刺繍という組み合わせは、大奥の夏の衣装である越後上布地の「茶屋染め」で、その美的効果を最高に発揮します。現代の美術館でこれを目にすると、日本の着物の歴史の中で一番美しいのではないでしょうか。

江戸時代後期になると、大名より財力のある豪商が出現しました。その奥方は、中流町人と同じ友禅染では満足できず、武家のスタイルに似て、さらに新たなスタイルを求めました。その中の一番有名なものが、三井家のものでした。

友禅染の誕生

かつて友禅染という技法自体が宮崎友禅により発明されたと言われておりました。 その理由はこの技法の名前が江戸時代から「ゆふせん」と記載されてきたからですが、特に戦前の昭和期に呉服業界内で友禅の発明者としての宮崎友禅が顕彰されたことがあり、その影響もあるのかもしれません。
金沢で宮崎友禅の墓が発見されたのもこの時期なのです。
ですが現在では、宮崎友禅が友禅染を発明したわけではないとされております。実証する資料としては、伊達綱村の産着というものが現存しており、それは友禅染で加工してるのですが、宮崎友禅が誕生したのは1659年と確認されています。一方、宮崎友禅の活動時期とされるのは1681年ごろからなので、宮崎友禅が友禅染の発明者であるというのはあきらかに矛盾してしまいます。
宮崎友禅が活動開始する前の江戸時代前期には、すでに各種の糊(もち米・麦)で作られていたものを使って「防染すること」と「彩色とを組み合わせて模様表現をする」という技法が普及していたことがわかっております。 その時代に書かれた文献には、イッチン染・茶屋染・しもふり染・太夫染・伊達染・シャムロ染などの言葉が出現しています。それらは友禅染の前史をなすと思われますが、それらと友禅染の関係は明確ではないのです。

イッチン染:久隅守景の雅号「一陳斎」に由来するとされている。麦から糊をつくって防染するもので、現在では再現され商品化されている。

茶屋染:上布に対し、藍を使って、糊防染で模様染するもの。現在有名な「茶屋辻」という柄の語源とも思われている。糊防染は同じだが、友禅染は絹地に多色染で引き染めなのに対し、茶屋染は麻地に藍染のみで藍甕で浸染をするところが違う。 藍は発酵させるために30℃以上にする必要があるが、それは糊が溶けはじめる温度でもある。つまり藍で染まると同時に模様は崩れてしまう。数年前、日本工芸会主導で完全復原され、「藍甕で浸染しても溶けない糸目糊の調合法」の謎もかなり解明されたようだ。

シャムロ染:タイの旧国名のシャムのことで、更紗だろうと言われる。この時代はインド更紗が輸入されており、その国産化もされていた。「鍋島更紗」「天草更紗」「長崎更紗」「堺更紗」などの言葉が伝わっている。

以上3つはよく知られておりますが、「しもふり染」「太夫染」「伊達染」については、具体的な技法を表すのではなく、宣伝のため、商品名として付けられたものにすぎなかった可能性が高いです。

「友禅染」という名前は、技法とは直接関係の無い「デザイナー」である「宮崎友禅」という人名が名称として一般化したものだと思われております。おそらく宮崎友禅が出版したひいなかた(図案集)が大流行し、その図案集には「友禅染」でないとつくれない図案が載っていたからなのではないでしょうか。
友禅染と呼ばれ、現代まで続く完成された模様染の特徴は、糊筒で糊防染するものなのですが、それが他の技法に打ち勝ち、模様染めの主流になっていったのは、絵画的な表現が可能な染色技法のうちで、絹の風合いを柔らかいまま変えず、洗濯しても色が落ちないという優れた特長を持っていたためと思われます。現在でも、友禅染以外の技法(アクリルなどの樹脂系顔料)で生地に直接模様を描いた着物では、彩色した部分の絹の風合いが変わり、固くなって着づらいものがあります。また現代はプリントが発達しておりますが、それが友禅染より美しいと感じることはありません。つまり友禅染より優れた染色技法はまだ出現していないのです。

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